イントロダクション
30日間連続ブログ投稿チャレンジ、という2013年の試みの再編集版です。
2013年は、東日本大震災からまだ2年しか経過していないので、被災地域のレポートや被災地域を応援する企画など、ちょこちょこもらっていました。
今回の記事も同様ですね。
おそらく担当している小冊子の中で、仮設住宅と仮設商店街を紹介して応援消費を促進しよう、みたいな企画だったと思います。
当時の空気感まで出せるほどの文章力はありませんので、淡々と読んでいただければ幸いです。
では、2013年5月16日の記事です。
被災から2年、気仙沼の仮設商店街を探訪
去る5月14日、仕事で気仙沼に取材に行って来ました。
2011年の6月以来なんで、ちょうど2年ぶりくらいの訪問となりました。
あの頃は、川の真ん中を住宅が流れていたり、フェンスというフェンスに藻が絡まっていたり、焼けた漁船が並んでいたりと、震災の爪痕がありありと残っていた時期でした。
そこから2年。
確かに瓦礫はきれいに片付けられて、街としての姿を取り戻しつつありますが、シンボル的にすっかり観光地化してしまった第十八共栄丸をはじめ、まだまだ被災した事実を生々しく伝える要素が取り残されていて、復興の道のりはまだ始まったばかり、という印象です。
そんな中今回は、気仙沼市を盛り上げる人々に話を聞いて来ました。
鹿折復幸マルシェ(2014年閉場)
まず向かったのが第十八共栄丸の近くにある「鹿折復幸マルシェ」(2014年に閉場)。
鹿折地区で商売をされていた方たちが再起をかけた仮設商店街です。
あいにく手違いがあって、アポを取ってた人には会えなかったけど、八百屋のおじちゃんおばちゃんにお茶をごちそうになって、おしゃべり。
このマルシェは、仮設の役割を終えて、来年には取り壊しになるんだそうです。
気仙沼復興商店街 南町紫市場(2022年4月現在、名称を変えて存続)
次に向かったのは「気仙沼復興商店街 南町紫市場」(2022年4月現在、「南町紫神社前商店街」として営業中)です。
ここはかつて存在した南町商店街の店主たちが、再び結集して立ち上げた商店街です。
見たところ、懐かしい昭和の香りがするスナック街のような佇まい。
紫市場の名称は、震災直後、南町商店街の皆さんが津波から避難した先が紫神社だったから。
現在こちらの神社の一角にある集会所が、同商店街の事務局にもなっているそうです。
復興屋台村 気仙沼横丁(2017年3月閉村)
続いて「復興屋台村 気仙沼横丁」に行きました(2017年3月に閉村)。
ここは単一の商店街の復活ではなく、市内全域から公募で集まった飲食店特化型仮設屋台村、というコンセプトになっています。
気仙沼ホルモンから、フカヒレラーメン、海鮮丼系といったフードだけでなく、カフェやバーなどもあり、さながら学園祭の模擬店のような雰囲気を醸し出していました。
時間があったら昼間っから酒を飲みつつ、食べ歩くのにピッタリ。
事務局の方も若い方で、かなり積極的にイベントの企画などをされていて、屋台村全体が何となく他より若々しい感じがしました。
僕はここで、海産物やホルモンに目もくれず、カレーを堪能しました。
道の駅 大谷海岸(2021年フルリニューアル)
最後にお邪魔したのが、テレビ露出も多いので結構有名な「道の駅 大谷海岸」。
ここは2年前の震災直後にも来ましたが、削り取られた海岸線には土のうが置かれ、はまなすステーションは取り壊され、直売所とトイレがすっかり新しくなってリニューアルを果たしたばかりでした。
パワフルな駅長さんの山あり谷ありエピソードに耳を傾けつつ、ここで時間いっぱい。
仙台へと帰りました。
2013年当時の感想
人口の7割が避難などで市外に流出してしまった気仙沼市ですから、観光客は有望な収入源です。
受け入れ施設は上記のほかにも結構充実していますので、この夏の旅行は気仙沼というのもアリじゃないかな、と思った次第です。
いや〜、しかし朝23度あった気温が、夕方帰る頃に9度とかって寒すぎでした。
2022年、読み返してみて一言
自分は沿岸部の住人ではありませんでしたが、被災県に生きる者として、また微力ながら文章というツールで何かを伝える仕事をしている人種として、このように被災地に入ってレポートをする仕事ができてよかったな、と思っています。
気仙沼は、昨年のNHK朝ドラ「おかえりモネ」のおかげで町おこしが加速しています。
震災から10年以上が経過し、三陸道が全線開通するなどハード・ソフトともに、あの当時から街も大きく変化しました。
近いうちにまた気仙沼に行ってみようと思います。
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