巨星墜つ
2022年4月7日、まんが界に燦然と輝く言わずと知れた巨匠の一人、藤子不二雄Aこと安孫子素雄先生が亡くなられました。88歳でした。
こっそりまんが家を目指していた小学生時代、バイブルだったのがまんが道でした。
運動が苦手で、からかいの標的になっていた境遇なども似ていたため、A先生自身がモデルである主人公満賀道雄(まがみちお)に、自分を勝手に重ね合わせたりしていました。
わたしのまんが道は、中学生の時に集英社に持ち込み、爆散したことで途絶えてしまいましたが、以降も私の中で藤子不二雄先生はF先生(藤本弘先生)もA先生も特別な存在であり続けました。
また、まんが家を現代日本におけるフリーランス的な働き方の先駆けだったとも思っていて、個人事業主になった今、改めて読み直しているところでした。
先生が遺した数々の作品についてのコメントは、他にもたくさん書く方がいるでしょうから、私は個人的な思い入れ、思い出の話をここに書き、A先生への追悼としたいと思います。
聖地巡り
昨年、パートナーと旅に出た際に、わがままを言って藤子不二雄先生の出身である富山県高岡市に立ち寄り、2人が手塚治虫先生の伝説の作品「新宝島」との出会いを果たした高岡城址公園を散策しました。
2人が並び歩いたんじゃないかと思われる散策路、橋、堀。
それらすべてが僕の目にはキラキラと輝いて見え、一方でまんが道のワンシーンの様にも見え、自分にとっては、もはやただの観光地ではなく、正に聖地でした。
また、高岡大仏にも立ち寄り、真夏に行ったのに冬の様子や春の訪れなど、まんが道の作中で描かれたシーンの数々が思い出され、本当に行って良かったです。
教わったこと
私の中で、まんが道=A先生のメッセージですから、多感な時期にバイブルにしていた以上は少なからず影響を受けています。
1つ目は、クリエイティブな仕事への憧れです。
結果的にまんがを描くことは、自分の才能の無さに早めに気がついたので、同じ道に進むことはありませんでしたが、何かを作り出す、生み出す、あるいは物語を紡ぐ、インプットしたものを様々な情報を統合して編集してアウトプットする、という要素は、文章を生業とする私に今も備わっていると思います。
2つ目に、映画をよく観るようになりました。
元々映画鑑賞は好きでしたが、レンタルビデオが隆盛の時代に多感な時期を過ごしたので、クラシックな西部劇や史劇などの、まんが道作中で観たと仰っている作品を探してみるようになりました。
この頃から映画を見る本数がかなり増えましたね。絶対にA先生の影響です。
3つ目に、仲間づくりへの渇望、みたいなものを挙げておきます。
有名な話ですが、F先生とA先生は上京後、A先生の親戚宅での居候生活を経て、トキワ荘へと引っ越し、そこに集まった若かりし頃の石森章太郎(のちに石ノ森章太郎)先生、赤塚不二夫先生、寺田ヒロオ先生らと研鑽を重ね、まんが家として成長していきました。
こうした仲間たちとの出会い、リスペクトとライバル心が混ざり合うような仲間との出会いに対する憧れが強くなったのは、間違いなくA先生の影響です。
金字塔としてのまんが道
A先生の代表作と言えば、おばけのQ太郎や忍者ハットリくん、怪物くんと言った作品名が上がるところでしょうし、少し大人まんがへとレンジを広げれば、プロゴルファー猿、魔太郎が来るや笑うせぇるすまん辺りの名前が出てくるのではないでしょうか。
私も上記の作品は大好きですが、他にもマスクドヒーロー物のシルバークロス、F先生との合作と言われる海の王子なども好きな作品です。
また、まんが道作中で描写がある、下積み時代に描いた数々の読み切り作品も、当時の子どもたちがどんなまんがを読んでいたのか、世相や時代背景、そして当時のまんがの文法みたいなものを読み解くのに、大変価値のある資料でもあると思います。
しかし、やはり私の中でのA先生のベストはやはり「まんが道」です。
まんがが今のように市民権を得るまでの物語であり、2人の少年が青年になる物語であり、昭和30年代の日本の様子を伝える史料でありと、本当に多様な魅力にあふれています。
天国でコンビ再結成を
藤子不二雄は、コンビ結成から30年以上が経過した1987年にコンビを解消しました。
その9年後の1997年にF先生が亡くなり、藤子不二雄を体現できるのはA先生一人という状況が、もう20年以上続いてきました。
確かにA先生が亡くなったのは寂しいことですが、天国で待ち構えているF先生と再びコンビを結成し、新生藤子不二雄として、机を並べてくれたら、ファンとしてはうれしい限りです。
安孫子素雄先生、お疲れさまでした。ゆっくりと休んでください。拝。
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